『箱の中』にモデルはいません。

 『箱の中』とは、堀川成美名義で平成11年に(厳密には平成10年12月に)東洋出版より発売した小説です。執筆は平成7年の大学院修士課程2年の時に書きました。その後すぐに『すばる文学賞』に応募し、三次予選を通過しましたが最終予選には残らなかった作品です。審査にあたった一人がルール違反をして直接激励の電話をかけてきたけれども、その時に受賞したのは『いちげんさん』という作品でした。

 本題。
 モデルはいません。
 舞台まわしで視点人物の海辺真理子は友人に、その教え子平田一志は塾で教えた子に「感じ」のヒントはいただいていますが、他はいません。海辺に関しては直接本人に「参考にさせてもらった」と言っています。しかし彼女は教師でもなく、名前も特徴もかぶるところはありません。
 小説の最後に「フィクション」の断り書きもしていますが、どうしても、自分がモデルと思いたい人がいるようなので、あえて「モデルはいません」と書いておきます。
 このモデルがいない、とか、創作の裏にかかわる部分を断る場合、どこまでを明かすか、というのはかなり勝負なところがあって、遠まわしに断るか、一切黙っているかのどちらかしかないようなところがあり、なぜかというと作品の裏というのはまず明かすものではなく、さらに、断るときに作品のあらすじを明かすこともあるからです。
 なかなか難しいところです。

 

 今特に問題にしているのは冒頭に登場する「菊川寛」という人物で、命名の由来は「川の向こうにいる先生に花を捧げて」で名字を作成し、「寛」に関しては菊川が決定した時点で、小説家で「文藝春秋社」を興した実業家の菊地寛から名前をいただきました。親が会社を経営しているという設定だったので、あやかってつけたということで「菊川寛」という名前にしてあります。「菊地寛」自体は芥川龍之介の友人でもあり文学史上有名な作家なので、「菊川寛」という名前を見た瞬間に「菊池寛」を連想するはずだと思いながらつけた人物名です。そこから何ら別の意味合いを持たせたわけではありません。
 また冒頭のバイク事故に関しては、わたくしが教習所に通っている時(やはり20歳ぐらい)に竜神スカイラインで最初に起こした事故がバイクだったというのをきいて、それを参考に設定したものです。
 菊川の母親がふくよかな女というのは、要するにシミュレーション上で欲した特徴で、確かにふくよかだけれども、役員を置くような規模の夫の会社の、その役員ができるほどには理知的な人物だと思っていただきたい。

 

 作品自体は二十歳頃には交換日記の応酬の部分はできあがっており、大方のあらすじも決定していました。しかし、数あるストックの中でそれを書こうという時には、何かきっかけがあるものです。それがオウム真理教事件であり、『箱の中』はそのオウム真理教事件の井上嘉浩元死刑囚が、メモで、学校を「箱」に例えているところから着想を得て執筆を始めた作品です。
 ここまでは今までにも書いてきたところ。
 「死から始まる物語」はそれに加えて作品の構成上、主題の上でも、実験上でも必要としたから死から始まるのであって、誰かを殺したいとかいう思惑で書き加えたものではありません。

 

 作品モデルというのはなかなか難しいもので、現実に生きている人物を作品に入れる場合、ほぼそっくりエピソードごと書くのでなければ矛盾が生じてしまうので、本当に日本の「私小説」(坂口安吾のいうところ「大人の作文」)的に記述するのでない限りはその中にまんま投入できない場合が多く、私の場合はせいぜいイメージモデルという感じです。
 ところが世間の人は、特に魅力ある作品に対して、いくつかの共通点を発見してモデルだと言いたがるもので、たとえば谷崎潤一郎が昭和五年の「細君譲渡事件」の後で昭和三年の『卍』のモデルは不在であると断り書いたように、割と安易にモデルがどうのと言いたがるもののようです。しかしそれが、「こしらえもの」がよくできている評価のうちならまだいいけれども、あまり過ぎると虚構を「こしらえる」能力を低く見られているとも感じられ、あまりいい気はしません。場合によっては社会性や創作哲学などを想定した次元の高いものを目指したはずなのに、違う実在人物にイメージをぬりかえられかねない。

 

 この文章を書いている理由は、相違点の方が圧倒的に多いにも関わらず、自分がモデルのように勘違いしている人物がいて、その相違点部分まで似せてきているので、あえて断りをさせていただいた。
 あとからバイクの免許をとったり、もともと太りやすい体質だと言っていたのに「やせぎす」であるように努力したり。
 エピソードに関しても、周囲を嗅ぎまわる以外何もかぶるところはないのに。
 公に向けて発表することを想定した作品は、自分の周囲の些末な事情を写したりはしないと私は考える。そんなことをして、誰がその事情を知るのか。それ以前に、いったいそれになんの意味があるのか。
 小説を書く「私」は、「公的な私」である。
 「日記」じゃあるまいし、「手紙」じゃあるまいし。
 作品の中では「日記」や「手紙」でさえも、公に発表することを想定して書くものであるけれども。

 

 似てたって、それは偶然。むしろ、違う部分の方が圧倒的に多い。
 もしこの先、その彼を本当に写す小説を書くことがあるとしたら、何らかの誤解を解くために丁寧に説明する必要が生じたときだと私は思う。個人的にはそんな日が来ないことを祈る。